進化も深化も止まらないノン・ストップ・アーティスト集団「パパ・タラフマラ」!
次回新作は、9/7〜12・下北沢ザ・スズナリの『僕の青空』。音楽にエレクトーン界のスペシャリスト松本淳一、
衣装にステージ衣装、撮影衣装デザイン・製作で大活躍中の久保薗美鈴、宣伝美術にサンアドの葛西薫・安藤隆・堀内恭司
を迎えお届けする、今秋、必見の新作ステージです。チケットの発売は、7/8(土)より開始。

パパ・タラフマラの魅力、その全貌を、各界著名人のコメントより、ご紹介します。

 
 
小池博史さんとパパ・タラフマラは、常にアウェーの闘いをしている。普通に考えれば日本はホームになるのだけれども、母国を敢えてアウェーにしてしまうところに小池さんの凄さがあり、その点を私は最も尊敬している。パパ・タラフマラが、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』に挑むという。その時が来たかという感じである。今まで常にアウェーの闘いをしながら、この大作に挑む基礎体力を付けてきたのだろう。ついに小池さんにとってのホーム(=魂の住処)が見つかるのか。途轍もないことが起こるような予感がする。

 
 
私が始めてパパ・タラフマラの舞台に出会った時の感想は、「何っ!?この舞台はっ?」でした。何故かというと、私が観た舞台は、言葉ではなく、ダンスで全てを表現していたから。ダンサーの一人一人の動きに、いろいろ理解しようとする自分がいました。でも、舞台を観おわって思ったのです。それは、理解しようとするのではなく、感じるものなんだと。ダンサー達のエネルギーが伝わり、いつの間にか私は、彼らの世界に引き込まれ、そして何度も感動しました。 もし、初めてパパ・タラフマラの舞台を観るという方がいたら、理解しようとはせず、素直な心で感じてみてください。そうすれば必ず彼らの魅力に気付くはず…。

 
 
パパ・タラフマラを初めて見たのは、もう何年前のことだったのだろう。寺山修司の没後、劇団を解散して頭が空白になっていた時期だから23年も前のことだったのだろうか?その時から、現在のコンテンポラリーなアーティストたちに先立つ予感があって、その存在は常に私の心の片隅に留まっていた。1981年、演劇実験室「天井桟敷」が上演した「百年の孤独」は、小池さんが言うように、寺山以外の何ものでもない「百年の孤独」でした。もし彼が存在していたら現在もなお、再演を重ねて初演とは全く異なる作品を提示していたことだろうと思う。“待ってました!”と、思わず叫んでしまいたくなる。小池博史さんとパパ・タラフマラの「百年の孤独」も、他の何ものでもない作品になるだろうと大いに期待している。

『百年たったら帰っておいで、百年たてばその意味わかる』

 
 
人類が二足歩行を始めた頃、知ったであろう体の「動き」。「鳴き声」が「言葉」になった瞬間。歴史が始まる前の
「物語」。類人猿は知らなかったであろう「愛と性」の優雅と猥雑。私がパパ・タラフマラに感じるのは、そういった、なんというか、何百万年も前にあったはずの、物事の生成する場に対する深い想いである。

それは現代的というよりもむしろ神話的でさえある。そして神話は、流行とは無縁なので古びることがない。

 
 

小池博史と会ったのは、もうだいぶ前のことになる。その時、彼がやっていた舞台は、「寺山修司+アルトー」といった感じのものだった。が、その中身は、寺山と違い、もっと鋭く激しいものだったと記憶している。鋭く激しいとは、生きている自分と厳しく対峙し、そこに生じるエネルギーを全力で放射していたという意味である。叩きつけるような舞台といったほうが的確かもしれない。社会に、自分に対する怒り、もどかしさが、その背後にはあった。

それから二十数年。小池は変わった。パパタラも変わった。目の前の壁に激突するような激しさは影を潜め、はるかに奥行きのある時間と空間を創り出すようになったのである。さまざまなアーチストとのコラボレーション、人種、国境を超えた出会いと発見。それが小池とパパタラに、より大きなテーマを突きつけ、その突きつけられたものから彼らは逃げなかった。むしろ、嬉々としてそれに立ち向かい、立ち向かうことで脱皮した。それが可能となったのは、小池とパパタラが、身体表現の根拠に目覚めたからだろう。なかでも無視できないのが、アジア的身体の発見である。これは、世界に出てみれば分かることだが、私たちは、私たちの出自、その具象としての身体性から逃れることはできない。身体表現が力を発揮するのは、実はこの自己限定性の「自覚」のあるなしにかかわることなのである。それを自覚した時、表現の根拠はさらに深まる。ゆったりとした時の流れと俊敏な動き、心の臓から湧き出す声。パパタラ特有の動きと呼吸。それはアジアの大地と自然、地球に生きるものの呼吸そのものであり、命の鼓動そのものでもある。小池とパパタラが、そのことに気づき、それを受け入れた時、何が生じたか。それは「意識の拡張」である。身体に目覚めれば意識が変わる。意識が変われば世界が変わる。表現も変わる。もちろん、これは冒険である。新しい世界に入り込むとは昨日の自分を捨てることでもあるからだ。だが、小池とパパタラは、それを行い続けた。そして、いまがある。たぶん、まだ変わるだろう。いったん拡張された意識は、拡張から深化へと向かう。深化という名の進化。

小池博史とパパタラは、この進化の過程を走り続ける稀有な集団なのである。事実、彼らの表現は、もう演劇とかダンスという領域性に収まらないものになっている。惜しむらくは、そのことの凄さに気づいている日本人の、いまだに少ないことである。

サンクトペテルブルグにて。

 
 
パパ・タラフマラを観ると、己が関節や筋がいとおしくなってくる。身体のあちこちが勝手にうずうずしてくる。いつか誰だったかに「人間は一本の管なんだよ」と言われた時、それはそうだ!とずいぶん気が楽になった。食べものはただ体を通っていくだけ、悲痛も苦痛もやがては体を過ぎていくのだノと。それにしても、あの容姿のまるでそろわない男女がひとつの波のうねりのようになった時、そしてそれがくだけ散ったように喚きちらす各人の形相を観た時に、なんだかきまって泣けてしまうのはなんなのだろうか。

 
 
『青/ao』を観た時の衝撃は大きかった。それは意味に還元できない、意味を問う下品な欲求を観る者に喚起しない何かだった。静かで深い情感に寄り添うように、そこには研ぎ澄まされた理性があった。それは肉体や汗によって生まれるものとは異質の身体表現だった。僕はそこに小池博史という人間の、肉体としての脳を観たのだろうと思う。そして、それは僕自身が目指している、表現の形だった。

 
 
「夢のような」と人は言う。眠っていて夢を見るのは簡単だけど、目覚めていて夢を見るのは難しい。ましてや現実の「此の世」の中で「夢のような」空間を作るのはとても難しい。夢はつまり夢なのだ。時間の軸も空間の軸も因果関係も全然なしで、個人の生きた記憶のすべてと人類全体が積み重ねた記憶のすべての中で、縦横無尽に繰り広げられる、何でもありの何にもなしの無意識の意識なのだ。「あの世」と「此の世」を行ったり来たりの、あるようなないような切なく官能的な浮遊感なのだ。でも、表現をするということは、この「夢」を形にしてみせるということ以外はないと思う。

大真面目に命懸けで風車に突撃するドンキホーテのように。小池博史のように。

パパ・タラフマラの舞台は「夢のような」空間と時間だ。勇気が湧く。人間にはこんなことができるのだ、と心が躍る。そうだ、大真面目に命懸けで突撃するしかないのだと元気がでる。私は、暗黒の中で道をしめしてくれるような光を放つ灯台をひとつ抱えて家に帰る。そして「夢」もみないでこんこんと眠る。

 
 
人は、文字に縛られ過ぎている。法律や校則などのルール、教科書にマニュアル、成績表、新聞に本に批評に広告、テキスト類。人は、空間にも無意識に縛られている。家やアパートなどの住まい、教科書にオフィスに工場に、電車にコンビニにレストラン、村、街、この国、この世界......。もっとのびやかで、いいんじゃないかな。<自由>と書くと、お固いその言葉にも縛られそうだ。なんでもあり、に近いかな。人はもっと、いろんな可能性を持った存在だってこと。人間の、肉体も声も表情も、意志も感情も想像力も、ずっとずっと豊かで、宇宙的な広がりや、歴史的な深みを持っているということ......。

「パパ・タラフマラ」が、笑いとため息と歓喜とともに、私に伝えてくれた、それが一番大事なことです。

 
 
芸術表現には様々な分野があるが、誰しもその分野に満足はせず絶えず垣根を越えてオリジナリティーのあるものを創造しようとする。平面に納まらずに立体に、立体に納まらずに時間空間に、時間空間に納まらずに身体に、視覚だけでなく聴覚に、言語に。しかし、あまりに限りのないその創造の範囲に表現者は足踏みをする。しかし小池さんはそれらを一抱えにして自分の表現手段として捉えようとする大きな伸びる手を持っている。私はその手で我々をひっくりかえすような悪戯を期待している。

 
 
<パパ・タラフマラ>に寄せた文章を書いて欲しいという。正直僕が何を書けばいいのか。だって昨日今日の集団ではないし、いつ出かけてもお客さん沢山入っているし、それが演劇なのかパフォーマンスなのかダンスなのか、まあどう呼んでもいいんだろうけど、舞台は実に深く面白いし、一度<パパタラ感染>してみたらどうだろう。告白するとぼくも、その中の一人の患者に過ぎないのです。
PS・演出家の小池さんの血走ったニコニコ顔、健在です。これは必見!

 
 
「パパ・タラフマラ」は意味の呪縛をするりとかわし、未踏の舞台表現地平を目指してクールに走り続けている。まだ見えないけど、我々の内部のどこかで目を覚ましたがっている来るべき表現の『種』『胚』を揺り起こし、命を吹き込むことに懸命に飢えている。その表現に対する姿勢の若さと、清さ、の行く先に目が離せない。

 
 
アートディレクターの葛西薫サンから誘われるまで、私、ハズカシながらパパ・タラフマラの事を知りませんでした。ま、知らないことだらけの人間ではありますがノ。でも、この人の眼力は信用しております。オモシロかったです。好感を持ちました。芝居モノから云って舞踊?というとチョット引いてしまうところがあるものンなんですが、みていてそんな垣根みたいなものは無くなりました。どことなく滑稽で、エロティックで、ワイザツでありながら、高貴で神聖なものも感じ、時々発せられる声(セリフ?)も新鮮だったし、何よりも演者の体の動きが私には楽しそうにも感じられました。

ま、一介の役者があれこれと批評めいた事を云っても始まりません、先ずは一見されることをおすすめ致します。
   
 
     


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